大阪地方裁判所 昭和45年(人)1号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決理由〕一、被拘束者が、当年七八才になる、請求者両名および拘束者の実母で、その長男である拘束者の出生このかた、同人と生計をともにしてきたもので、現在においても拘束者と同居しているものであるが、昭和四五年五月七日頃より、糖尿病等のため、病床に臥しているものであること、および請求者松栄が拘束者方を訪れ一晩泊つたことについては、いずれも当事者間に争いがない。
二、そこで、人身保護法および人身保護規則にいう意味において、果して拘束者が被拘束者を「拘束」しているかどうかについて、検討することとする。
<証拠>を総合すると、一応つぎのような事実を認めることができる。
(一) 亡上野重太郎と被拘束者との間には、三男三女が儲けられたが、二男重信は昭和一四年に戦死し、また二女寿栄子は生後一年余りで死亡したので、現在長男である拘束者、長女である請求者松栄、および三男である請求者重治の外に、三女文子の四名が存命している。上野重太郎が昭和二二年一一月二六日に死亡した際には、拘束者方の住居に、被拘束者、請求者両名および文子が同居していて、拘束者の妻淳、その長男貞一も同一家屋に居住しており、間もなく二男隆己も出生した。そして拘束者およびその家族は、二町七反の水田を耕作して農業により生計を立てていた。ところがその後、家計の主導権をめぐつて、被拘束者と淳との間で争いが生じたり、また淳と文子との間で些細なことから衝突することがしばしば発生した。昭和二七年になると請求者松栄が田中忠作と婚姻したため家を出ることになり、また昭和二九年四月には請求者重治が大学を卒業して大阪市内の中学校に奉職することになり、これと同時に拘束者方から独立した。文子はその後も拘束者方に同居していたところ、次第に精神に異常をきたすようになり、昭和四〇年頃には遂に東香里病院精神科に入院することになつたが、その入院費用は拘束者が支出している。
(二) 昭和三八年頃、亡重太郎名義の土地の売買に端を発して、拘束者とその余の相続人との間で紛争が生じ、当事者間で解決がなされないまま、昭和四〇年頃、右相続人らは拘束者を相手どり、大阪家庭裁判所に対して遺産分割の調停を申し立てたが、この調停も不調に終わり、審判手続に移行したものの、現在に至るも、なお未解決のままである。このような事情のため、右調停において中心的役割を果した請求者重治と拘束者との関係は極めて険悪化しており、最近では同請求者が拘束者方に被拘束者を見舞つたことが全くないというような状態である。また請求者松栄も、本件請求に及んだ直前を除いて、あまり拘束者方を訪れていない。
(三) 被拘束者は、老齢のため、約二年前より守口市所在の松下病院に断続的に通院し、治療を受けていたが、昭和四五年五月七日頃より常時病床に臥するようになつたので、近隣の医師である鳴沢淳英の往診を求めるようになり、以後日曜日を除いて、毎日同医師の往診を受けている。同医師の現在における診断は、腰痛のため寝込むようになつたところ、以前から蓄積されていた心筋障害症、脳軟化症等が顕在化するようになつたもので、治療を施すことによつて早期に治癒するような性質の病状ではないというのである。被拘束者は前裁の見える日当りのよい六畳間に病臥しており、その使用している寝具衣類等に格別の汚損部分は見受けられない。食事は一日三回淳が世話をして食べさせており、食事の内容は鳴沢医師の了承を得ている。被拘束者は腰痛のため便所へ行くことができないので、一日七回淳が中心になり、他に二人の助力を得てその世話をしており、またその都度、被拘束者の寝ている姿勢を変えるようにしている。更に風呂は、一週間に一回、拘束者の家族が四人がかりで一時間半もかかつて入れるようにしている。淳は、被拘束者の看病について、上野家に嫁いだ以上被拘束者の世話をするのは当然であるとして別に不満を述べておらず、また拘束者の息子二人も、殊に隆己は大阪市立大学の医学部学生でもある関係で、割合によく被拘束者の看病に協力している。そしてこのようにして看病がなされているので、医師鳴沢淳英にしても、また被拘束者の弟である小寺重治にしても、拘束者およびその家族が被拘束者に対してなしている看病に格別落度があるようにはみていないし、更に、請求者松栄においてさえ、同請求者が実際に見分した限りにおいては、被拘束者に対する看病や食事の内容に特に欠陥があるとは受け取つていない。
(四) もつとも、請求者松栄は昭和四五年六月一五日頃、被拘束者が病臥していることを聞知して、同月一六日、一八日、および二三日の三回にわたり同人を見舞うため拘束者方を訪れ、一八日には一晩被拘束者と同泊して看病に当たつたが、その際被拘束者は、請求者松栄に対し、入院すれば腰痛の苦痛から逃れられるのではないかという期待から、請求者重治に頼んで病院に入院させてほしいと洩らしたことがあつた。
(五) しかし一方、被拘束者は拘束者に対して、同人の許を離れて請求者らの世話になりたいとか、あるいは入院させてもらいたいとかいう意向を表明したことはないし、また被拘束者代理人が昭和四五年七月二日および三日の二回にわたり被拘束者に面接した際にも、被拘束者は現在の状態に不満を感じていないし、別に入院したいとも思わないと述べている。更に、医師鳴沢淳英の意見によつても、是非入院させなければならないほどの必要性は認められないというのである。なお同医師は、箕手陽子に対して、夏の土用に際して被拘束者に生命の危険があると述べたようなことはないし、また同人より入院が必要であるという意見書の交付を要求された際に、この要求を断つている。拘束者は絶対に被拘束者を入院させないとは考えていないが、医師の意見を参考にした上、現在ではなお入院させる必要がないと判断しているので、同年六月二四日頃、請求者松栄より入院させた方が拘束者としても楽になるのではないかという趣旨の電話がかかつてきた際には、入院させるつもりはないと返答した。
(六) 被拘束者は、脳軟化症のせいか、記銘力の障害が甚だしく、通常人と同様の判断力は有していない。このため、被拘束者は昭和四五年四月末頃の午前二時三〇分頃、自宅を実家と錯覚して自宅へ帰りたいといいながら玄関まで出てきていたことがあつた。しかし被拘束者が常にこのような状態であるわけではなく、時にはその言語力、および判断力が良好になることがあり、同年六月末日頃より割合良好な状態に復している。
(七) 請求者松栄は家庭を持つている上に病弱であり、また請求者重治は中学校に教諭として勤務している外に、入院している養祖母の世話もしなければならないので、被拘束者を看護するに十分な時間的余裕を持ち合わせていない。
以上の事実を一応認めることができ、右認定に反する<証拠>は前掲各証拠と対比して信用できず、他に右認定を覆すに足りる疏明はない。
ところで、人身保護法および人身保護規則における「拘束」とは、被拘束者の身体の自由を奪い、または制限する一切の行為を指称し(同規則三条参照)、その態様の如何を問わないものと解すべきであるが、およそ拘束者が拘束をなしているといえるためには、拘束者の意思に基づいて、被拘束者に対しその身体に有形力を行使したり、あるいは脅迫等をなすことにより被拘束者の身体の自由を拘束している場合でなければならず、仮に現実には被拘束者の行動の範囲が通常人のそれに比較して極めて狭い範囲に限定されているとしても、その行動の制限が拘束者の意思とは無関係に、もつぱら被拘束者の精神的肉体的欠陥の故に生じているような場合には、これをもつて拘束者が拘束をなしているものと解することはできないというべきである。
これを本件についてみるに、前記認定の事実より判断すれば、(一)の事実は遠い以前のことであつて、このことが被拘束者の行動の制約に対する心理的要因となつているとは到底認め難いところであるし、昭和四五年五月七日頃に被拘束者が常時病床に臥するようになつてからこのかた、同人が脳軟化症のせいで通常人と同様の判断力を有しない時もあるという点を考慮しても、なお拘束者の許を離れて請求者らの世話になりたいとか、あるいは入院したいとかという被拘束者の意向に反してまで拘束者が自宅で被拘束者を看病しているとは認められない。もつとも(四)において認定したごとく、被拘束者が請求者松栄に対して入院したいという意向を洩らしたことはあつたが、これはむしろ激しい腰痛から早く逃れたいという願望をこのような形で表明したものと解するのが自然である。そして被拘束者が現在常時病床に臥するのやむなきに至つているのは、もつぱら脳軟化症や腰痛等のためという被拘束者自身の精神的肉体的欠陥の故であると認められる。これを要するに、拘束者が前記認定のような事実関係の下に被拘束者を看護しているのは、意思能力のある要扶養者に対し、社会的に相当な方法によつて扶養義務を尽しているにすぎないものというべきであつて、これをもつて、拘束者が被拘束者を「拘束」しているものとは到底認めることができない。
なお付言すると、被拘束者の病状、看護に要する時間と労力、その他前記認定の諸般の事情を考慮すると、被拘束者の容態が急変して医師の指示でもない限り、病院に入院するよりも、現状のままで拘束者方に居住して、拘束者およびその家族の看護を受けた方が、被拘束者にとつて最も幸福であると判断される。
(日野達蔵 喜多村治雄 仙波厚)